沈黙が、私を支える。


by aoinote101

日本語ブーム

 NHK放送文化研究所の「言葉アンケート」(03~04年)への回答で、「日本語の乱れを感じる」が85%あった。「乱れ」感は今や蔓延(まんえん)しているようだ。こんな私でさえ言葉使いが気になることがある。例えば「よろしかったでしょうか?」……今さらですが。でも、引っかかりながら笑顔で「ハイ」と答える私こそ大人!

 そもそも、言葉自体、年月と共に変化し続けるものであるはず。私達の使用する言葉は、日々新しく生まれ変わるものだと思う。だからといって、正しい言葉使いが出来なくても良いと言っている訳ではない。
 例えば親が子どもの前で、目上の人に接して謙譲語・尊敬語・丁寧語を正しく使い、生活を通して子どもに教えるならば、子どもが正しい日本語を学ぶことはさほど難しいことではないように思う。また、たとえアルバイトでも接客業に就くならば最低限の言葉の教育はあってしかるべきだと思う。つまり、学校で勉強するというより、大人になるまでに正しい日本語を学ぶ様々な機会がなくてはいけないはずなのだけれど、そのあたりが欠落しているのではないだろうか?

 接客業というところで思うのだが、ファストフードの店員が変な言葉を使ったとしても、支払う金額は知れているので聞き流す事にしている。しかし、高価な宝石や車、ましてや不動産などの購入を検討する時、営業の人間の言葉使いが出来ていなければ、どんなに欲しい品物でも、私は踏みとどまってしまうだろう。その商品について説明できるだけの知識はもちろん無くてはならないが、社員をしっかり教育できていない会社の商品を信用できそうにないというのが本音なのだ。
 では、逆に完璧な言葉使いをすることの出来る接客はパーフェクトなのだろうか?実はそれも疑問なのだ。ある有名なフランス料理の店で、随分慇懃無礼な接客をする店員に出会ったことがある。私や、私の連れの者が若いこともあり「なめられていたのだろうか?」と感じた。というのも、たまたまその店に来ていらした顔見知りの企業の役員と挨拶をした後で、私達に対する店員の態度は一変したのだ。彼の言葉使い自体はなんら変化はなかったはずなのに、私達が受けた違和感は否めない。結局気持ちがこもってなければどんなに謙譲語・尊敬語・丁寧語を正しく使いこなしていても意味はないのだろう。
 そうなのだとしたら、相手を敬う気持ちはあっても、少し使い方を間違った日本語を使う者と、ちっとも敬う気持ちもないのに完璧な言葉使いに自分自身陶酔している者では、どちらに好感をもてるだろう?

 随分昔、「作法や言葉使いなどは表に現れるもので、つまりは器のようなものなのだが、結局器の中身が空っぽでは意味がない」と教わったことがある。社会に出たときに礼法を指導してくださった先輩の言葉だったと思う。
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by aoinote101 | 2005-06-07 08:19 | 日常